1・17 震災経験から11年 [経年日記 1月]
1月17日阪神淡路大震災、あの日から11年が経ちました。
ともすれば風化しがちなあの経験を、
我家での出来事を通して今一度振り返って見ました。
【その日の朝の状況】
11年前の平成7年1月、
それは私が東京へ単身赴任をして5回目の1月でした。
当時の1月15日は未だ成人の日の祝日で、
私の51回目の誕生日でもありました。
15日が日曜日と重なったので、翌日の16日は振り替え休日です。
私はそれに合わせて17日に岡山で仕事を作っていたので、
14日の土曜日から17日の朝まで宝塚の自宅で家族と過ごしました。
従って、家内と高校3年生の長女そして中学2年生の長男と言う
家族4名全員で17日の朝を迎えました。
【その瞬間】
長男を毎朝6:30頃に学校へ送り出さねばならない家内は
既に起きていました。
私は2階の部屋で5:40頃に半分目を覚ましていました。
その時、最初のグラグラが来ました。
「関西で地震は珍しいなあ・・・震度3かな?」
次の瞬間、今まで経験した事も想像した事も無い凄い揺れに
私は跳び起きました。
まるで大きな巨人が家を掴んで、
揺さぶりながらガンガン地面に叩き付けている様に、
家中が歪んで物凄い音を立てました。
「家が壊れる!」
私は2階の自分たちの部屋で寝ている子供たちに、
声を掛けるのも忘れて、階段を駆け降り様としました。
12段しかない階段は大きく揺れて6段目くらいから私を振り落としました。
最初の大きな揺れから20秒程が経過して揺れが一寸収まりました。
子供たちを階下に呼んで、
戸外へ脱出しようと玄関のドアー・チェーンを外しましたが、
ドアーが開きません。
裏口から未だ暗い1月の戸外へと出ました。
我が家の前の道路に避難しながら辺りの家の様子を見ると、
ご近所は何の異常も無かった様に静まり返っていました。
後になって聞いてみると、
戸外に脱出するどころか、寝ている上にタンスやテレビが落ちてきて
起き上がることも出来なかったのだと言う事が分かりました。
【我が家の被害状況】
家に戻って懐中電灯を照らしながら確認した我が家の状況。
リビングルーム
・縦型のピアノが前に置いた椅子の上に倒れこみ、
椅子の脚が折れていた。
・30cm程の鎖で吊り下げてあるシャンデリアが、
大きく揺れて天井に穴を開けた。
・飾り棚の上の時計や置物はことごとく床に落ちて、
時計は止まっていた。
ダイニングルーム
・1m位の高さの台に乗せてあったテレビが床に落下。
・食器棚から食器が飛び出し床に散乱。
戸外
・460Lの電気温水器(高さ2m、胴回り1.5m)が
取り付けてあった壁から剥がれ、
足元をコンクリートに固定していた金具を引きちぎって横倒しになり、
ボコボコになった。(現在でも古傷を抱えながら頑張ってくれています。)
・基礎のコンクリート部分に亀裂が数箇所。
・庭の下の「掘り込みガレージ」の天井に細い亀裂。
当時築後約15年の我が家は、2×4工法の壁がしっかりと全体を支えました。
天井に小さい穴が開いただけで室内は無傷でした。
この地震で、我が家の耐震性は
マグニチュード7.3、震度7までは保証された事になります。
メーカは、大リーガーがCMをやっている会社です。
【被害状況の報道】
電気は当然停電していて、情報源は私の通勤携帯ラジオのみ。
初期のニュースでは「震源地は豊岡方面、死者1名の模様・・・」とかで
要領を得ず、大震災が発生しているとは想像もしませんでした。
8:50頃に東京の本社へ電話を入れて、
その日の昼に岡山で落ち合う予定の同僚に、
地震が有った事を告げ暫く様子を見ようと言う事にしました。
その時間は電話は、まだ一回で通じました。
我が家には役に立つ電池が殆ど無いことが分かったので
念のために買い貯めをしようと、駅の近くまで5分ほど車を走らせました。
この時公衆電話に行列が出来ておりましたが、
その時私はその理由が未だ分かりませんでした。
我が家がある高台から下の方向の阪急電車の駅に近づくにつれて
今回の地震の大きさが段々と分かってきました。
既に食料品を求める人の列が出来ていた神戸生協の店で、
売れ残っていた単四電池と食料品を仕込んで一先ず帰宅しました。
午後に電気が通じ、テレビのニュースで地震の状況を報道し始めました。
17日は何度か余震があり、我々家族は1階のリビングルームに集まって、
服を着たままで雑魚寝をしました。
私と長男はスニーカーを履いたままで寝ました。
翌日になって、テレビが神戸市内の信じられない被害状況を流し始めました。


地震で被害が発生しているのを、近くの自衛隊伊丹駐屯所が把握していても
法律に縛られて自分達から自発的に救援に行けなかったと、
後日になって中部方面隊の責任者が会見で泣いていました。
前例の無い事態に遭遇した際の指揮官の判断力が、
如何に重要かと言う事の悪い例です。
色々な部分で、この様な不備な点が露呈された震災でした。
本来助かるべき処を、このような事が原因で助からなかった方々が、
多かったと思われますが、自衛隊が持っている震災救助用の器具・資材の類は、
現在でも貧弱だと言うことです。
神戸市の西部地区では地震後の火災による犠牲者が多く出ました。
家屋の下敷きになっている家族を、火が迫ってきても助けることが
出来なかった家族はさぞ無念だったことでしょう。
大阪ガスがガスを止めるのを躊躇したのも、被害を大きくした原因だったと私は記憶しています。
(ガス会社側で一旦閉栓すると、次に開栓する時の安全確認が大変だから)

いわゆるライフ・ラインが寸断されました。

我が家のライフ・ラインが復旧までに掛かった日数。
電気:当日の午後復旧
水道・ガス:約1月後に漸く復旧。北海道ガスからも応援隊が派遣されました。
我家の電気温水器には80度程の温水が残っていて、
ご近所にもおすそ分けしました。
【周辺都市の状況】
17日の岡山での仕事は当分延期にしましたが、
東京本社へも戻れないので、一先ず大阪にある関西支社の方へ出勤しました。
電車が走れない場所もあり、そこは壊れた家屋の横を歩いて通勤。
地震のエネルギーの凄さを、思い知らされました。
旧い家や、地盤がしっかりしていない敷地に建っていた家の被害が大きい様です。

姉歯元設計士もこれらの惨状を自分の目で見ていたら、
あの様な偽装計算はしなかっただろうと私は思います。
ヒューザー社の小嶋社長が、奇しくも1・17に、国会で証人喚問されます。
傾いた建物の間を歩いていると、平衡感覚が変になりました。


この震災で犠牲になった方は、6,434名でした。
あらためてご冥福をお祈り申し上げます。
時の村山(自社さ連立)内閣の危機管理の甘さが指弾されました。
震災の被害を受けた地元が選挙区で、一時ブームを起こした女性議員が、
震災後未だ日が経っていない頃、在職25年永年勤続で表彰を受け、
赤坂のクラブで「ウナセラデ東京」を歌ったとか言う噂が
我々地元民の神経を逆なでしました。
25年勤続議員になると、国会の委員長室に100万円の肖像画が掲げられ、
毎月30万円の特別交通費が支給されるのが余程嬉しかったのでしょう。
この話、1月17日が来る都度、思い出します。
【仕事場への復帰】
水道とガスが復旧するのに時間が掛かりそうだからと、
長男が通っている学校(吹田市)の近くに、家内が空き家を見つけて、
家族は暫くの間の避難生活に入りました。
私は地震の翌週に東京へ戻りました。
【余録】
1月ほど経って私が東京から大阪へ出張した夜に、
会社のKとMと3人で、お互いの無事を祝して飲み
二次会でスナックへ行きました。(歌は歌っていません)
そこは行き付けの店で、
我々より先に同じ会社のS先輩がカウンターで飲んでいました。
その先輩も私と同じく東京への転勤組みですが、
家族帯同で転勤しましたから、今や東京の人でした。
彼と一緒に飲んでいる連れの若い2人を我々は知りませんが、
話の内容を聞いていると関連会社の人らしいのが分かりました。
「地震の状況を報告しろって言うから、回り道して見てきたけど、
大したこと無かったよなあ・・・おい!」
「そうですね」
そんな怪しからん会話を、
罹災者の一人として聞き捨てにする訳にはいきません。
「Sさん!東京へ戻って、そんなアホな報告をしてもろたら 困りますね!」
「何? もう一度言って見ろよ!」
「地震 大したこと無いなんて・・・何処を見てきたんですか?
アホな事報告せんといて下さいよ!」
「何・・・!」
彼はカウンターの椅子を滑り降りて私の方へ跳んで来て、
後ろから首を絞めます。
連れの若いのも同じ様に私に体当たりをしてきます。
暫く4人でもみ合っていると、
見かねたママがカウンターから出てきて止めました。
多勢に無勢・・・危ない処でした。
無勢・・・? KとMは?
周りを見回したら私の仲間はいません。
ママに聞いたら4人でもつれている間に出て行ったそうです。
逃げ足の速さを地震の経験で養ったのでしょうか?
今でも彼らと飲んだ時に地震の話になればその時の話をして、
自分の割り勘を有利にしています。
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天井に開いた小さな穴と、へこんだ温水器が、
1・17震災の経験を風化させない為の、我が家のメモリアルポイントです。

悪い経験も良い経験も、それを共有すれば家族の絆は強くなりますね。
【今日の一句】
天井のキズは きずなのメモリアル
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阪神・淡路大震災は今日17日、発生から丸11年を迎えました。 死者6434人、行方不明者3人。 今朝、神戸・三宮にある東遊園地で行われたつどいに行ってきました。 1995年1月17日5時46分・・・ ここ以外でも、いろんな場所で追悼のつどいがありました・・・ …[続く]
本日、1月17日は、阪神大震災、あれから11年・・・・・







はじめまして、こんにちは。
今朝、三宮の東遊園地のつどいに行ってきました。
風化させないように、後世に伝えていかないといけないですよね。
TBさせていただきます。
by kobekko (2006-01-17 10:35)
貴重なお話をありがとうございました。
神戸に父の姉、私の伯母がいるので、朝のニュースでそれほど被害が
大きくないと聞き、ホッとしていたのですが、昼のニュース、夕方のニュースと
恐ろしいほどの大きな地震であった事が報道されるようになり、
朝の安心もどこへやら・・・神戸の伯母の家に電話するもつながらず
田舎の祖母宅、父の妹宅、いろんなところに電話をして
安否が分かったのは3日後でした。
伯母は神戸の東灘区にいましたが、幸い大きな被害もなくマンションも
無事だったという事で安堵しましたが、周りは大変だったそうです。
当時を知っている方のお話を聞き、この大きな地震災害を知らない子供たちにも
キチンと伝えていかなければならないなと思いました。
by 綺華 (2006-01-17 10:58)
大変貴重なお話・お写真を本当にありがとうございます。
ご家族のみなさんもご無事で、お家も壊れず何よりでした。
私は関東土着の民で、親類にも西の人間がおりませんので、
マスコミが流す情報しか知り得ません。
その日は、東京の会社で勤務中にラジオを点けっぱなしにしていましたが、
亡くなられた人の数が発表のたびに何倍にもなるので、
聴いていて本当に恐ろしかったです。
家に帰ってテレビを点けると、長田区の大火災をずっと中継しており、
昼間の映像で住宅やビル、高速道路の橋桁などの倒壊の光景を見、
一人暮らしの私は、いま自分にふりかかってきたら・・・と思うと
心細く、夜遅くまで不安でやりきれない気持ちで観ていました。
しばらくして、毎日放送で出した記録ビデオを、
売り上げが寄付されるというので買いました。
本当に恐ろしい光景でした。観るたび泣いてしまいます。
今日も家に帰って観たいと思います。
亡くなった幾千もの方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
by midori (2006-01-17 12:09)
ボニピンさん niceとTBを有り難うございます。
貴ブログにもコメントを書かせて頂きましたが、
あの体験をもっと沢山の人が共有する必要があると思います。
インドスマトラ沖の津波災害に対しても、私も含めて「対岸の火事」と言う認識を反省する機会でも有る1・17です。
by 敏 悌次 (2006-01-17 12:45)
ayakaさん おっしゃる通りですね。
ayakaさんの様に間接的ででも、身近な事として体験を持っておられる方は、
少なくとも(失礼)1.17を真摯に受け止められる事でしょうね。
それは、たまたま阪神淡路で発生しただけの話で、
日本に住む限り共有の情報として活用すべきだと思いますが、
まだまだ温度差が有ると私は思います。
by 敏 悌次 (2006-01-17 12:53)
midoriさん 関東土着でありながら、我々と同じ位に受け止めておられたのを知って嬉しく思います。
私も今回の記事を書くに当って、記憶を辿ったり調べ物をしましたが、
自分の記憶の中でかなり風化しつつ有るのを感じました。
今でも画像を見ると想像を絶する被害であった事が分かります。
これを機会に記憶を新たにした次第です。
by 敏 悌次 (2006-01-17 13:05)
貴重な写真と、レポートを読んでいるような判りやすい内容で、心が打たれました。神戸に住んでいる親戚の無事がわかるまで何日かかったか、安否が判明する間の胃の痛さを思い出しました。
by goinkyonosora (2006-01-17 17:21)
はじめまして、きすと申します・・・
私は神戸在住です。TBさせて下さい・・・
by きす (2006-01-17 17:34)
おぺさん 今晩は。
震災の真っ只中にいる本人は自分の無事を知人に知らせる・・・と言う事に
気づくのがややもすると遅れます。
私も思い掛けない人から安否確認の電話を貰って、大変恐縮した記憶が甦りました。沢山の人達と繋がって生きているのですよね。
コメント有り難うございました。
by 敏 悌次 (2006-01-17 18:49)
きす さん 初めまして。
先程貴ブログを拝見しコメントも入れさせて頂きましたが、
厳しかった環境から復活されている様で、結構です。
堅ちゃんの歌を聞きながら癒しの夜を過ごしてください。
by 敏 悌次 (2006-01-17 18:50)
ひなぷーさん 元気出してくださいね!
by 敏 悌次 (2006-01-17 18:50)
記事中、3度ほど胸が詰まり涙が出そうになりました。
高速道路が横倒しになった映像が衝撃的で忘れられません。
>悪い経験も良い経験も、それを共有すれば家族の絆は強くなりますね。
ご家族で大変なご経験をされた宝塚青年団さんだからこその言葉だと思います。
どうかご家族お健やかにお過ごし下さいませ。
貴重なお話をありがとうございました。
by Peko (2006-01-17 18:51)
当日の詳細な状況が、とてもわかりやすく、淡々と書かれていて感銘致しました。記憶はどんどん薄れていき、感情だけが、今も取り残されているような気がします。
震災後からまち協に関わった主人は、今日もポーアイへと赴いたようです。。
by ひなぶー (2006-01-17 19:18)
風化させてはいけないコトですね。阪神淡路大震災。
当時、報道でしか、情報を得ることは出来ませんでしたが、
衝撃的だったことが忘れられません。
もうそろそろ、東海・東南海・南海・濃尾地震のどれかが
起こるのではないかと言われていますし、危機管理の
意識を今以上に持たなくては!と思っております。
by (2006-01-17 22:06)
Pekoさん 今晩は。暖かいコメントを有難うございます。
あの日私だけが家族と一緒にいなかったら、
あの時の状況を幾ら説明されても、
体験を共有していないと言う事実は否めません。
不幸中の幸い・・・と言ったら、
もっと酷い経験をされた方からお叱りを受けるかもしれませんが、
正直そう思うことが有ります。
by 敏 悌次 (2006-01-17 22:45)
ひなぷーさん 今晩は。実は私の記憶もアセ始めていたのですが、
今回の記事を書くことによって、かなり呼び戻すことが出来ました。
メモリアルデイと言うのはやはり必要ですね。
そちらには「まち協」と言うのが有るのですね。具体的に行動されているご主人は、ご立派だと思います。
by 敏 悌次 (2006-01-17 22:57)
wanwanさん 今晩は。wanwanさんは医療機関にお勤めですから、我々とは別の危機管理意識をお持ちだと思いますが、それを活用する日が来ない事を祈るばかりですね。
by 敏 悌次 (2006-01-17 23:04)
17日の記事、追記としてですが、アップし直しました。
確かに地域活動は必要だと思うし、私も否定はしないのですが、あの日からの11年は長かったんですよ^^。。これも、ひとつの形・・・として読んで頂ければ・・・と思いました。
by ひなぶー (2006-01-17 23:54)
TBさせていただきますので、よろしくお願いします。
by ひなぶー (2006-01-17 23:56)
ひなぶーさん お早ようございます。
17日の追記を読ませて頂きました。
複雑な気持ちですが、頑張って頂きたいと思います。
by 敏 悌次 (2006-01-18 09:39)